**********************************************************************  昨日まで、あれほどお互いのことを思いやり、明るく優しかった父と母の罵 り合う声が、壁一枚を隔てた部屋で、どこか遠く聞こえる。  部屋は暗く、寒い。  深い海に沈み込んだ貝のように耳を閉ざし、目を閉ざし、なおも聞こえるそ の呪いのような意味ある音の羅列を極力意識の外に押し出しながら、少年はじっ と身じろぎ一つ取る事も無く、小さくうずくまっていた。  遣る瀬無い悲しみと、怒りがどろどろと熱い岩漿のように溢れてくる。つい 数日前まで、家の空気はこんな冷たい物ではなかった。暖かく迎え入れてくれ る、居るだけで安心できる。そういう場所だったはずだ。  だけど、今は違う。  ふと顔を上げると目の前に、九年前行方不明になった姉という、少年の記憶 にもそれこそ欠片しかない人間が、しかも九年前のそのままの姿で立っている。  この声は彼女にも聞こえているはずだ。それなのに、幼い少女はそんな様子 は微塵も見せず、唇を堅く引き結び、きっと虚空を睨みつけ、悠然としてその 場に座り込んでいる。  少年はその姿を見て反射的に、半ば憎しみにも近い苛立ちが沸き立つのを感 じた。思っても見ない言葉が口から飛び出す。 「お姉ちゃんなんか、帰ってこなかったら良かったのに」  それは正しく、少年の心の奥底に隠され、少年自身も目を背けていた本音の 言葉だった。自らの言葉の意味に愕然となる。しかし、既に言葉は放たれた後 だ。少女の唇はさらに固く結ばれる。  その瞬間、少年は己の恥ずべき勘違いに気が付いた。少女は決して何も感じ ていなかったわけではない。ただ、強く我慢していただけなのだと。 「あ……」  うろたえた声が喉の奥から零れ出る。言うべき言葉が見当たらない。  少女は、ただ真っ直ぐに前を見詰めたまま、涙一つ零す事ができなかった。